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2019.12.06 引退ブログ

『サッカーが教えてくれたもの』(4年松木里緒)

ホームページをご覧の皆様、こんにちは。
そして、新年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
新年一発目、そして最後のリレー日記が回って参りました。週4日SFCに通いスペイン語を学び、引退してからも自分で寮の周りをランニングしている、自分に厳しく全てに正直で頑張り屋さんな寮生仲間の同期、庄司夏穂からバトンを受け継ぎました、今年度、主務を務めさせていただきました、松木里緒と申します。

さて、私は最後のリレー日記に小学校1年生から始めた15年間のサッカー人生で得たものを3つお話ししたいと思います。

 

“最高の瞬間”

「サッカー続けてるのすごいね、どうしてサッカー続けてるの?」
と聞かれたことがあります。正直聞かれた時は考えたことがない、何でだろうと自分でも思いました。サッカーを続けてることだけですごいのか、と不思議にも思いました。確かに今までを振り返ると理不尽だと思ったことやキツかった走りもありますが、サッカーを辞めたいと思ったことは一度もありません。私にとってサッカーを続けてきた理由は自分の成長を信じていたから、まだまだ出来ると思っていたからだと思います。言うならばサッカーが自分の得意なフィールドであると少しでも感じていたからです。実際には上には上が沢山いることを中学生の時には感じていましたが、自分の可能性を信じてこれまでサッカーに取り組んできました。しかし、今までの15年間のサッカー人生では嬉しかった出来事よりも悔しかった出来事の方が格段に多いです。悔しかったこと、上手くいかなかったこと、勝負に負けたことばかりです。しかし、悔しい出来事の回数以上に、仲間と分かち合った数回の喜びの感情は言葉に出来ない程のものです。大事な試合でゴールを決めた瞬間、全員で勝利を掴み取った瞬間、タイトルを獲った瞬間。その瞬間に味わった気持ちや、仲間と見た景色はこれから一生忘れることの出来ない経験になると思います。もしサッカーのない人生を過ごしていたとしたら、あの瞬間を超える”最高の瞬間”には出会えていなかったでしょう。サッカーが教えてくれた、私にとってはかけがえのない財産です。

 

“出会い”

私はソッカー部女子の副務・主務を務めさせていただいたお陰で、沢山のOG・OBの方々、地域の方々、その他慶應を応援して下さる方々に出会うことが出来ました。
特に下田では「下田の父」である宮澤さんに出会うことが出来ました。何でもお見通しの宮澤さんには少々甘やかされ、少々厳しく指導いただきました。人生相談をするなら母親の次に宮澤さんでした。相談したいことは本当はまだまだ多くありました。宮澤さんに関しては夏穂のブログに全て書かれているので是非ご覧下さい。(http://v6.rentalserver.jp/keio-soccer.net/diary/12097.html)「素敵なOLになってね」という最期の言葉を実現出来る様に一生懸命生きたいと思います。
4年間、なかなかチームとして結果を出せず、時に厳しい言葉をいただくこともありました。しかし、陰ながらに応援して下さっている方々の存在を知ることが出来たこと、様々な人の支援や応援の上にこの組織が成り立っていることを肌で感じることが出来ました。激励の言葉をいただく度に、これまで紡がれてきたソッカー部の歴史や想いを感じました。また、それぞれのカテゴリーでサッカーを通して尊敬出来る素晴らしい指導者や選手、仲間に出会うことが出来ました。

 

“考え続けること”

サッカーというチームスポーツにおいて”考えること”はとても重要だと思います。もちろん、組織の一員として、自分と向き合い、仲間と向き合い、学連・副務・主務・副将・主将などといった役職を決めるミーティングを通して沢山考える機会はありました。そしてそれと同様かそれ以上に、サッカー選手としてピッチ上で考え続けてプレーすること、ピッチ外でサッカー感を養うことの重要性を今更ですが大学生になってから知ることが出来ました。私は中学生の時に所属していたクラブチーム、高校生の時のサッカー部では”戦術”といった概念はありませんでした。そのピッチに立つ11人の適正を考えたフォーメーションを監督が考え、選手それぞれが自分の強みを生かしたプレーをする。これといった戦術があるわけではなく、個人のプレーの集合体であったように思います。そのお陰か、高校の頃は伸び伸びとプレーが出来ていたようにも感じます。
ソッカー部女子に入部してからは、”戦術”の概念が出てきました。1年目は岩崎監督の下、蹴るサッカーが主体でした。2年目からは伊藤監督の下、GKのビルドアップを始めとしたボールを大事にするサッカーへと移行しました。しかし、監督やコーチから提示されるサッカースタイル、プレーモデルが全てではありません。戦術においては、全員の共通理解があることが重要なことだと思っています。そしてそれ以上に、共通のプレーモデルを基盤として、選手一人ひとりが状況を見て考えて判断することが必要になってきます。プレーモデルに依存しすぎて自分たちがプレーを楽しむことを忘れてしまい、上手くいかないことをプレーモデル自体のせいにしてしまうこともありました。広いピッチで相手がいるサッカーではいつも練習通りにいくわけではありません。だからこそ、サッカーは面白いんだと思います。練習、試合において考え続け、学び続けること、そしてピッチ上で楽しむことを忘れずにみんなにはサッカーをして欲しいと思います。思い通りのサッカーが出来ず、悩むことも多いかと思います。ですが、伊藤監督・ケビンコーチの考えるプレーモデルと同じ絵を共有し合い、その上で一人ひとりが考え続け、生き生きとしたプレーをピッチで体現して欲しいなと陰ながら思っています。

最後は後輩へのメッセージのようになってしまいましたが、これら3つの他にも15年間のサッカー人生、そしてソッカー部女子の4年間で出来た気付きや学びは多くあります。これからは社会人というフィールドにはなりますが、考え、学び続けていきたいと思います。

 

最後に、これまでソッカー部女子を支えて応援して下さった方々、誠にありがとうございました。目標には程遠い結果となりましたが、沢山の方々の支えのお陰で何とかTEAM2019は一部残留をすることが出来ました。来年度は後輩達が一部の舞台で躍進してくれると思います。今後共、ソッカー部女子へのご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

拙い文章ではありましたが、ご精読いただき誠にありがとうございました。

『ソッカー部女子へのすすめ』(4年庄司夏穂)

2019.11.25

ホームページをご覧の皆様、こんにちは。
1年に1回しか回ってこないリレー日記(4回目)で、奇遇にも2年連続同じ人物の紹介をしなければならないのかと、冒頭から頭を悩ませております。。「こういうのは貶しつつも最後に持ち上げるんだよ、、ニヤニヤ、、」と本人から謎のプレッシャーを掛けられました。「チカチュウ」という謎のフレーズを気に入り、部員たちを謎の世界へ引き込む才能を持つマイペース異端児(特異な存在という意味です、褒めています)、同期の芳賀千歌子からバトンを受け取りました。総合政策学部4年の庄司夏穂と申します。
今年も残すところあと1ヶ月程となり、時の流れの速さを感じております。
私たち4年生に残されたソッカー部生活はあと2週間です。

最後のリレー日記は、私が出来る最後のソッカー部女子の発展のための一助として、入部を迷っている方や慶應を受験しようか迷っている高校生に向けてこの部活の魅力や私自身の部と大学生活での考えについて綴りたいと思います。エピソードや主観的な意見もあり、少々長くなってしまいましたが、温かい目でお読みいただけたら幸いです。

「かほは自分の道を生きればいいよっ。色んなものに触れて探して見つけて、色んな人に会って聞いて感じて、じっくり考えて選べばいいんだよっ!」

この言葉は、私が慶應に入学し寮生になってからの3年間、「下田の父」として大変お世話になった宮澤さんが私に残してくれた言葉です。
余談ではありますが、ここで少し宮澤さんのことをお話しさせてください。
かつての先輩方のリレー日記にも度々登場していた「宮澤さん」が今年の3月、4年目を迎えた私たちの代がシーズンインする日にお亡くなりになりました。ソッカー部の歴史・時代を全て知る宮澤さんは、常に辛口コメントを発しながらも大きな優しさと叱咤激励で私たちを勇気付けてくださるとても偉大な方でした。年初めに緊急入院した際には、宮澤さんのお見舞いに訪れる体育会の先輩方や、遠方や海外から連絡を入れてくれる方々の多さに驚き、宮澤さんが本当に多くの方々に慕われる人望が厚い方なのだとその時に改めて感じました。
そんな偉大な方と過ごした3年間は私のソッカー部生活の中でとても重要で今後の人生においても間違いなく大きな糧となるでしょう。今の代だと私と里緒が特にお世話になったので、宮澤チルドレン最後の娘(孫と言われることもありました)代表として、この場を借りて改めて感謝させていただきます。
宮澤さん、本当にありがとう。これからも宮澤チルドレンを見守っていてね。(元々リレー日記なんか読む人ではないけれど、この気持ちは伝わっていると信じています。笑)

そんな宮澤さんが私にいつも言ってくれていたこの言葉を意識して過ごしてきたわけではないけれど、気付いたらその言葉通りに過ごしてきたような気がします。完全に見透かされていましたね。。恐るべし宮澤さん。
私はどんな想いを持って入学をし、何を得たかったのか、どんな考えを持ったのか。宮澤さんとも私の将来について何度も語りました。今、よく考えてみるとこの部で4年間を過ごさなければ本気で考えることはなかったかもしれません。

「私からサッカーを引いたら何も残らない」
サッカーを長年やってきた人は特に、このような言葉を耳にすることが結構多いのではないかと思います。何も残らないわけはないはずで、競技を通して培った根性やメンタルの強さといったような精神面や体力やパワーといった身体面での培ってきた力は必ず誰にでもあります。今後、競技を続ける人も社会に出る人もその培った力を活かす機会は多いはずです。しかし、そこに自分らしさはあるでしょうか。他の人とは違う「自分らしさ」、強みや知識。(人と同じで何が悪い!と思う人からしたら愚問ですが。)私はどちらかと言えば、「自分らしさ」が分かりませんでした。だからこそ、それを手に入れる為、サッカーを通して自分の興味の幅を広げることや、やってみたいことを大学生のうちに探したいと考えて慶應SFC進学とソッカー部女子への入部を目指しました。念願叶って、慶應に入学することが出来、自分の時間をマネジメントしながら部活と勉強をしているソッカー部女子の仲間の姿に、入部当初の1年目も現在の4年目も変わらず刺激を与えてもらっています。自分も頑張ろうと思える良い環境です。まさに、「文武不岐」を体現している組織だと思います。
(文武不岐とは、学問と武道(部活動)は別物ではなく一体である。勉強、部活を分けて考える(両道)ではなく、物事の考え方や取り組む姿勢の根っこは共通していて、人として向上することに通じ、それは相乗効果をもたらす。という意味です。)
この言葉は高校時代の先生に教えてもらいました。ふと思い出した時に、これが、他大学にはない慶應ソッカー部女子の強みであると感じました。

部活動としての体育会は、確かに、時間の拘束が長いかもしれない。ルールや決まりが厳しいかもしれない。自由が少ないかもしれない。はる(熊谷明奈)のリレー日記にもあったように、やりたいことが出来ずに周りを羨むことがあるかもしれない。けれど、この4年間、この体育会という、ソッカー部女子という組織で過ごさなければ分からない達成感や想像以上の喜びは普通の大学生活を送るよりも計り知れないと思うのです。そして、その中で違った視点で物事を考えてみることや他大学では見つけられない新しい発見を経て、自分を成長させることが出来ると思います。長い人生の中のたった4年間を、高め合える仲間と同じ目標を目指して切磋琢磨することに体育会の価値があるのだと思います。与えられた時間を有効活用し、自分を見つけたり、やってみたいこと・チャレンジしたいことを模索し、出来るならば実践すればいいのです。※女子部は比較的チャレンジに寛容です。
他大学のように強豪校ばかりから選手が来ているわけではないし、本当に1部のチームか!と思うほど人数は少ないけれど、ソッカー部はみんな一人ひとりが自分と向き合い、サッカーでは同じベクトルを向いて真摯に取り組み、個人個人でそれぞれの目的意識を持って勉学に励んでいる人が多いです。リスペクト出来る先輩や様々なことにチャレンジしている学校の友達、SFCの‘なんかすごい’学生達、応援してくれる地域の方々との繋がりを通して学べることは、この環境ならではであり、慶應の、ソッカー部の強みだと思います。

色んな人と話して経験して色んな感情を抱いた結果、私もようやく、何となくではありますが、習得してみたいこと、チャレンジしてみたいことが出来て、今はサッカーと同じように夢中になって取り組んでいます。自分の強みや自信となるものをサッカーを通して見つけ手に入れることが出来れば、「私からサッカーを引いたら何も残らない」という状態には陥らないのではないでしょうか。私はまだ自信を持って答えることは出来ませんが、「自分らしさ」を手に入れる為の方向性は決まったような気がしています。宮澤さんに言われたようにじっくり考えて選んでいきたいと思います。とにかく、今までの経験とこの先のことを別物として捉えるのではなく、+αの知識や経験を積み重ねていくことが今は一番大事なのかなと思います。その環境がソッカー部女子にはあると思います。今回のリレー日記には女子部のサッカーのことについては然程触れていませんが、最近は特に、みんなと刺激しあって良い雰囲気で練習出来ていると感じています。人数はやはり少ないですし、紅白戦(11vs11)が出来ないことも多いけれど、少ないからこそ出来る練習や選手全員とプレー出来て盛り上がる時間は今まで以上にあり、みんなで鼓舞しながらバチバチとサッカーしています。この切り替えの良さもソッカー部女子特有のものだと思います。

慶應の受験やソッカー部女子への入部を迷っている人へ、このまとまりのない文章が少しお役に立てれば良いと思います。(何言ってるかわかんない!と思われている人もいるかもしれませんが、)是非、慶應でサッカーがしたい、文武不岐を実現したい、サッカーをしながら自分の好きを見つけたい・探したい、ソッカー部の環境でサッカーがしたい、ソッカー部の勝利に貢献したい、などなど理由は何でも結構です。少しでも気になったら是非練習参加にいらして、本物のソッカー部女子を体験してみてください。一緒に闘いたいと思える選手に出逢えるはずです。皆さんもここで自分の道を見つけてみては如何でしょうか。最後は完全にPRになってしまいました、失礼しました。。
結論、私が伝えたいことは、サッカーを通して新しい発見や経験が出来ること、素敵な人たちに出逢えることは、何にも代え難いものだということです。
特に、この部で過ごす4年間は、サッカーで苦しみ辛い思いもするれど、勝った時、ゴールを決めた時など、みんなで喜びを分かち合う瞬間はやはり良いものだし、サッカーを通して色んな視野を広げることが出来ます。本当にオススメです。

そんな4年間を過ごした私たち4年生の、長いようで短い波瀾万丈ソッカー部生活も終盤に差し掛かって参りました。まだ終わっていませんが、この4年間を通して私を成長させてくれた方々や応援してくれた全ての方々にこの場をお借りして感謝申し上げます。そして、この想いをあと2週間、全力でサッカーを楽しみながら体現していきたいと思います。本来ならば、インカレ出場権を獲得し、インカレへ向けた意気込みを書く予定でしたが、勝負の世界は厳しいもので、残念ながら私たちはインカレ出場を果たすことが出来ないと同時に、「インカレ優勝」という目標達成への道も途絶えてしまいました。しかし、下を向いている暇はありません。12月1日には関東リーグ最終節(ホーム最終節)、8日には大学リーグ入れ替え戦があります。どちらも絶対に勝ちたい試合です。残された時間の中で一人ひとりが成長し続けて、みんなとサッカー出来るこの2週間の1日1日を大切に、全力で精進して参ります。そして、必ず勝利し、残留します。
まとまりのなく拙い文章ではありましたが、最後までご精読いただきありがとうございました。
12月1日、関東女子サッカー2部リーグvs順天堂大学戦、ホーム最終節です。
是非、下田グラウンドにお越しいただき、熱いご声援を宜しくお願い致します。
今後とも変わらぬご声援の程、宜しくお願い申し上げます。

『私のマグネット』(4年芳賀千歌子)

2019.11.18

HP、Twitter、Instagramをご覧の皆様、こんにちは。
喜怒哀楽を最も分かち合ったであろう、加藤楓琳からバトンを引き継ぎました、環境情報学部4年マネージャーの芳賀千歌子と申します。彼女をありのままに紹介するとコンプライアンスに反してしまうのでやめておきますが、最低で最高な奴です。
リレー日記のタイトルは非常に悩みました。一時は冗談抜きに「チカチュウ誕生秘話」にしようかと思いましたが、友人の指摘でやめました。ということで本題に入りましょう。
それではお聴きください、芳賀千歌子で、「私のマグネット」♪

「何で私のマグネットがあるのだろう。」
入部当初、初めて作戦ボードを見たときに思った。そう、2年の5月の途中入部から間もなく、部の作戦ボードには「ちかこ」と書かれたマグネットがある。そのマグネットはベンチの位置からずっと動かないが、ボードを見る度についつい確認してしまう。そんな私のマグネットももうすぐ席を外すことになった。

人は、何かを失いそうになる時、初めてその大切さに気付くのだと言う。
まあ、そんなことよく言われていることだし、「いつでも何事に対しても感謝してすべきだ」と軽く思っていた。が、やはり意識していても何かを失うその都度、惜しく感じてしまう。先日、まさにそうだった。
大学リーグ最終節、東京国際大学戦。0-0で引き分け。結果1部9位に終わった。つまりインカレ出場の道が絶たれた。関東リーグが入れ替え戦に回らない限り、12月8日の大学リーグ1部2部入れ替え戦で私はサッカーの第一線から離れることとなった。
悲しいとか悔しいとか決まった直後に実感することが出来ず、頭の中が空っぽになった気がした。ベッドの中、すっからかんの頭に浮かぶのは、「暇になったら地元の出身少年サッカーチームの手伝いに行こうかな」とか「子供ができたらいっぱいサッカーしたいな」とかそんなフワフワしたことだった。いや、なんでこんなこと考えてんだ私。今日は目標が達成出来なかった日だぞ。今のことを考えろ。まだ終わってないぞ。馬鹿じゃないの。涙が出て初めて気付く。ああ、私サッカーの第一線から離れるという事実を受け入れたくないんだな。眠りに付きながら、これまでを振り返る。

7歳の頃、たまたま少年サッカーチームに入った。理由は近所の男の子に紹介されたから。かつての幼馴染は放課後、サッカーボール片手にいつも私の家の玄関の前で呼び出す。早くサッカーするぞと。
実際は、サッカー半分、残りの半分は虫捕りやらゲームやら鬼ごっこやらをして夕方まで外で何人かと遊び呆ける。木に靴が引っかかって泣いたり、サッカーのゲームでは明らかに不公平なチームを組まされて揉めたり、でっかいカマキリを捕まえたり、マンションで鬼ごっこをして管理人に怒られたり。ボールを隠されたり隠したりで喧嘩したり。そんな感じで、正直放課後はサッカーの練習だけしていた訳ではないが、どんな場面でもサッカーボールが側にあった。毎日が冒険の様で本当に楽しかった。7歳の私はこれからの人生で輝く原石を拾っていたのだ。友達だけでもだめ、サッカーボールだけでもだめ、2つあって初めてその原石は輝き始める。その原石の居場所を教えてくれた両親とサッカーチームのコーチには本当に感謝している。
【サッカーは楽しい。友達といるのは楽しい。】小学校はこんなことを教わった。

高校サッカー。物心がついたせいか、苦しいと感じることが多かった。練習はキツい。授業は眠い。勉強もキツい。家も遠い。夜も遅い。怪我も治らない。同期も決して優しくはなかった。9割の時間は苦しんでいたと思う。しかし、たまにシュートを決めたり、敵を交わしたり、勝ったり。一握りの嬉しい瞬間は、9割の苦の時間をも忘れさせる。たった一瞬の為に、苦しみ、もがく必要があったのだろう。そして何でも言ってくれる同期がいた。放課後プリクラを撮ったり、食べ歩きをするようなイケてるJKにはなれなかったが、全力でサッカーをして全力でふざけて全力で怒って全力で笑い合える仲間に出会えた。
【嬉しい瞬間の為にはもがき続ける。決してやめない。文武両道。そんな中出会えた仲間は一生の仲間】高校サッカーで得たことはこれ。

身体も良くないしサッカーは高校までが限界だった。「大学サッカー」という選択肢はないものとしていた。そんな大学1年生の頃は予備校のチューターとか球場のビール売り子など、アルバイトに励んでいた。でも、なんか違う。そう思った私は少年漫画の読み過ぎかと思われるが、「仲間が欲しい!」と意気込み、主将の工藤真子の紹介でソッカー部にマネージャーとして飛び込んだ。

これまで自分本意に生きてきた私にとって、マネージャーの世界は修行のようだった。去年の私のリレー日記「マネージャー三箇条」からは私が苦しんでいる状況が生々しく伝わってくる。いつも練習中はマネージャーが作業する部屋(通称:マネ部屋)で1人で仕事をしている。たまに様子を見に窓から外を覗くと皆息を切らして、冬場でもキラキラとした汗を流して、サッカーをしている。しかし、焦点をずらして、冷たい窓に写るのは、熱くも苦しくもない、どこか冷め切った自分の顔。そんな自分を見る度に、孤独さと虚しさを感じた。「仲間が欲しい」って入部を決めた私は正しかったのかな?マネ部屋という空間に私だけ閉じ込められている気がした。そんな時期があった。それでも「頑張ろうよ」と、手を差し伸べてくれた「仲間」がいてその暗いトンネルを抜け出すことが出来た。正直この頃の記憶は余り思い出したくないのだが、受け入れよう。

部員は覚えているだろうか、ラストシーズンの始まる前のミーティングで「副務やる!」と勢い余ってしてしまった爆弾発言を。まあ勿論皆反対。私1人で回すマネージャー業で精一杯だったし。そもそもキャパシティないし。でも何故この発言をしたのか、理由はあった。いつもグラウンド外で最終的に責任を負うのは主務だった。サッカーをしない部員は私しかいないのに、最終的に問題が起こったときに怒られるのは選手の主務だ。そんな時、「ごめん」しか言えないのが辛かった。情けなかった。でもよくよく考えると役職の有無に甘えていた自分がいた。私はマネージャーとして主務副務に最終的に負担が掛からないように自分のスキルを上げるべきなんだなと思い、反省した。

そんな感じで始まったラストシーズンは間もなく再び暗いトンネルに入ることになった。5月から8月まで、本気で笑えない日々が続いた。詳しいことは書けないけど、色んな問題が起こった。今後の運営に関して、私が後輩に迷惑を掛けてしまったことも。学年間、学年内で対立があったことも。部活以外のことも何もかもダメだった。体重が8キロも落ちてしまい、久々に会った友人皆に心配された。ここに来て初めて自分の弱さを知ることとなった。けど、もう引き返せない。なぜ、私のマグネットが作戦ボードにあるのか、それはチームの一員として、戦力として最後まで闘うからだ。私は前を向いて、最後までみんなを支える。最後まで真っ直ぐでありたい。勝って、みんなで喜びたい。アイツのシュートが見たい。アイツのドリブルが見たい。そんな思いを捨てようなんて一切思わなかった。一度自ら決めたことは最後までやり切るという信念があったから、もがきながら、倒れそうになってもみんなの手を借りながら、少しずつ立ち直った。

大学サッカーで、何を学んだ?マネージャーとして、何を学んだ?まだ完結していないが、1つだけ確かなことがある。【誰かの為に何かをすることは温かい気持ちになれる。】高校まではただ熱くなることはできた。しかし、「誰かの為に」という視点は私に、温かい光を灯してくれた。熱さと温かさをこれからは大切にしたい。

「インカレ優勝」を目標としていたのにインカレ出場すら叶わなかった。しかし、今はスパイクを履いて汗を流してピッチを駆け回っている選手の為に、ここで成長させてもらった(まだ発展途上だが)恩返しの為に、私は心で汗を流す。気付けばサッカーでできていた私。大切なことは殆どサッカーから教わった。本当に最後の全力サッカー。私は最後に、何を得るか。ラスト1ヶ月。駆け抜けよう。作戦ボードから私のマグネットが外されるまで、選手と一緒に。

逆境の多かったこのシーズンもあと1ヶ月程で終わってしまいます。しかし、どんな時も私に勇気と希望を与えてくれた選手を、どうか最後まで応援していただけると幸にございます。
長い文章にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

『私が最初にググった言葉は、「粗相」です。』(4年加藤楓琳)

2019.11.06

圧倒的OG感を漂わせ、チームの大黒柱として活躍する中井里衣子からバトンを引き継ぎました。総合政策学部4年の加藤楓琳と申します。
長く拙い文章ですが、私が最後に書きたいことを気持ちを込めて書かせていただきます。

「プロサッカー選手になる!」4歳からボールを蹴り始めた私は、小学生から本格的にサッカーを始め、当時プロ化されていない女子サッカーの現状も知らずただひたすら夢を追いかけてきました。中学では兄と同じクラブチームに入団し、高校では強豪校、常盤木学園に進学しました。

しかし、そんな夢もいつしか「兄を超えたい、褒められたい」という承認欲求を満たす為のツールになっていました。何故私はサッカー選手になりたかったのだろうか。何故サッカー選手でなければいけないのかと、自分自身と向き合う日々が続きました。高校選手権で思う様な結果が残せなかったことに加え、サッカーを辞める勇気がなかった私は「ここまで自由にやらせてくれた両親に、今までのサッカー人生でお世話になった人に恩返しをする」という目的を持ち大学でサッカーを続ける選択をしました。

入部後、私が最初にググった言葉は、「粗相」です。
ここではサッカーをこなすだけの選手はいらない。プロサッカー選手になることを諦めた私が成長する上で、ソッカー部はベストな環境だったのかもしれません。ただ、本当にしんどかった。
1年目、「辞めます」と言ったら、「それは受け入れられない」と岩崎監督に突き返されました。
4年目、学生ミーティングを抜け出し、伊藤監督に「辞める」と言いに行きました。でも、言えなかった。
私は「辞める」このたった3文字が言えなくなった3年半で、表現しきれない程沢山の感情と大切なものを見つけました。

入部して約1ヶ月、サイドバックとして公式戦に出場していた私は「粗相」で干されました。入部最速で粗相という単語を覚えたのは私だと思います。同期には連帯責任で迷惑を掛けまくりました。ごめんなさい。しかし、何故、サッカー部なのにサッカーが出来ないのか。何故、試合当日3時間前から掃除をして疲れなければならないのか、疑問しかありませんでした。他にも様々な思いや疑問がありましたが、まとめると、こんなところでサッカーをしても楽しくない、そんなサッカーで私の目的を果たせる訳が無いと思い、監督に「辞める」と言いました。しかし、「それは受け入れられない」と突き返され、1週間休んでいいからOGや色々な人と話してと言われました。当時は分かりませんでしたが、明確な目的・目標も持たず、ここでは果たせないと決めつけ辞めようとした私を止めてくれた監督や先輩方に、今ではとても感謝しています。そして「学生なんだから中途半端でいいんだよ、やりながら探せばいい。」そう言ってくれた先輩の一言で私は「この部でサッカーをする意味を、やりながら探す」ことに決めました。
しかし、ただひたすら夢を追う生活から一転、サッカーをしながらその意味を探す毎日はとてつもなく苦しい日々でした。

そこからチームは降格と昇格、インカレ初勝利を経験し、私はいくつかの粗相と怪我を乗り越え、気付けば最終学年という現実が迫っていました。
そして迎えたサッカー人生19年目となる最後の年、今年3月に私はGKに転向しました。少し飛躍してしまったので当時の状況をまとめます。

GKが不在である
インカレ優勝というチーム目標
私の目的

私はこの3つの課題を解決する為にGKに転向しました。簡潔に書きましたが、勿論、死ぬほど苦しみました。就活解禁は3月1日、就活なんてしていられませんでした。泣きながら書いたESは締め切りが間に合わず、本社まで走って持って行ったこともありました。面接対策をしてもらう度OB・OGの方々に泣きっ面を晒していました。食べられず眠れず考えるだけで涙が溢れてくる、それでも悩み抜いて出した答えが「GKになり、このチームでインカレ優勝する、最高のチームにする。」というものでした。
やりたいとか、やりたくないとか、そんなんじゃなくて。私はどう在りたくてどんな人間になりたくて、絶対に譲れないものは何なのか。

GKになり試合に出れる保障もないですし、サッカー人生最後の年、センターバックとしてDFを引っ張りたい想いもありました。それでも、センターバックで培ったキック力やコーチング、やると決めたらやり抜く信念、私の強みを活かせたならば、他のチームにはないストロングポイントになるのではないか?
私がGKになることで、総和としてチームが強くなる可能性があるならば、GK不在という課題そのものだけでなく、インカレ優勝という目標に対しても最適な手段なのではないか?つまり、それは「ここまで自由にやらせてくれた両親に、今までのサッカー人生でお世話になった人に恩返しをする」という私の目的を果たすことにも繋がるのではないか?

私がGKになった理由はこんなところです。
しかし、こんな強い思いを抱いてGKになったものの、失点するかしないか、その苦しみはGKをやってみなければ分からない程辛いものでした。試合に負ける度、「失点しなければ負けない」という言葉が重くのしかかりました。「失点した時こそ立ち振る舞いに気を付けろ」と、嫌という程いとペーさんに言われました。他大学の選手や友人から「なんで楓琳がGKやってるの?試合出てたのに勿体無い。」そう言われる度、言葉に詰まる私が居ました。チームメイトに苛立ってしまう自分が嫌で練習中に泣き出してしまうこともありました。コーチ、しお、困らせてごめんなさい。
こんなチームの為にGKになった覚えは無いと言い捨て泣きながら帰ったこと、次の日には学生ミーティングを抜け出し、いとペーさんに「辞める」と言いに行ったこともありました。でも、言えなかった。それは何故なのか。それは、この数ヶ月がとてつもなく辛く苦しかった一方で、何よりも大切なことに気付くことが出来た瞬間だったからです。
「この部でサッカーをする意味」
ずっと探していたこの問いに対する答えです。どんなに下手な私にも自分の時間を削り教えてくれるコーチがいて、私がとてつもなく不機嫌な態度をとっても妥協せず指導してくれる監督がいる。指の靭帯を切りお揃いのテーピングを巻きながら競い合う仲間がいて、こんな粗相ばかりの後輩の試合を見に来てくれる先輩、前監督・コーチ、沢山の応援をして下さる方がいる。「楓琳が決めた事なら全力で応援する」と言い居酒屋で一緒に号泣してくれた親友。そして「楓琳なら最高のGKになれるよ」とメッセージをくれた父。GKになると伝える以前に「1番高いGKグローブ買ってあげる」と言って結局買ってくれなかった母。背中を押して欲しくて電話したのに励ますどころか何故何故と面接官かのように問い詰めてきた兄。
私を作り上げてくれた大切な人達に感動という形で恩返しをする事。それは、あの時辞めずに過ごした日々があるからこそ、ここでしか成し遂げられないこの部でサッカーをする意味となりました。
だから私は、止める事を当たり前にしなければならない。ストロングポイントをもっと磨かなければならない。誰よりも努力し誰よりも成長し、このチームの最後方から勝利に貢献する。
こんな後輩で、こんな先輩で、こんな同期ですみません。でも、あと少し、全員で戦い抜こう。インカレへの道は決して簡単ではないけれど、この1週間を勝つ為に尽くそう。辛くて泣くのも、悔しくて泣くのも、苦しくてどうしようもなくて泣くのも、もう十分だ。勝って泣こう。絶対みんなで最高の景色を見よう。

11月10日(日)13:00、ホームで関東大学女子サッカーリーグ最終戦があります。インカレ出場を懸けた大事な一戦です。是非会場まで足をお運びいただき、皆様のお力をお貸しください。全員で圧倒的な勝利を掴みます。応援の程宜しくお願い致します。

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